雲雀恭弥

2009/03/19

中編

正しい街(後)

8年経ってもは僕に対して何ら変わらなかったようだった。「嫌いになった?」と訊けば「別に」と答え、「焦がれてくれてたの?」と訊いても「別に」と相変わらず何を考えているのか分からない返答を繰り返す。少なくとも僕は変わったんだ、と彼女に伝えると「そう」と興味なさげに返事をする。その返事の中に彼女の隠し持つ強気な態度が見えて、気づけば僕は少しだけ微笑んでいた。殊更それを隠すつもりもなかったので、僕はそのままの顔を彼女のほうへ向けていると、彼女もまた少しだけ笑顔を含ませた表情を僕に向けて来た。
「久しぶりの再会に何かご馳走してあげるよ。何が食べたい?」
彼の言葉には「うん」とだけ返事をして彼女のお気に入りなのであろうか、小さな小料理屋へ僕を案内する、と言い出して歩いていった。僕はそんな彼女の後ろをついて歩いていくとやがてオフィス街の外れにある商業ビルへたどり着いた。
「この下」
が小さな声で僕に伝えると、彼女はするりと階段を下りていく。僕は相変わらずその後ろを黙って付いていく。地下一階にゆったりとした雰囲気の小料理屋へ彼女は勝手を知っているのかするりと入って行って、入り口から僕を手まねきして呼び込んだ。
「お二人様ですか? 座敷個室とテーブル席がありますが」
店員の言葉に「どちらでも」と言おうとするの言葉をさえぎり「座敷個室をお願いするよ」と個室へ案内するよう店員を促した。
「どうぞこちらへ」
店員に案内されて壁で仕切られた4畳半の、料理店の個室にしては広めの部屋に案内されて靴を脱ぎどちらともなく席に座った。

「何にする?」
僕が尋ねるとは「とりあえず生大と揚げ出し豆腐、あなたは?」と尋ねた。
「僕も同じものを貰うよ。嫌いなものはあった? なければ適当に注文するけど」
と言うとは「チーズかまぼこ磯辺揚げは譲れない」とにしては珍しい主張をする。
少なくとも彼女は中学までの彼女のようにすべてが受身でないと言うことに目を見張った。
否、主張するときは主張していた。きっと彼女はちょっとしたことで自我を出すという事を放棄していただけで、少しずつではあるがこうして自我を主張しているのだろう、と僕は漠然と考える。
「じゃあそれも注文してあげるよ」
思えば自分自身も丸くなったものだと、内心苦笑いを浮かべながらも呼び出しブザーを鳴らして店員を呼び出して適当にオーダーを通した。

或る程度の料理が運ばれるまでは、この料理は好きだとか嫌いだとか珍しいだとか、おいしいとかお互い探りあいをするような会話が続いていた。一種均衡が取れた会話の中には、内容は含まれていない。お互い仕事の事や私生活の事について何も語らず、語らせず、聞かず、尋ねず。
お互いを探るような会話でギリギリの均衡を保っていた僕たちの会話にいい加減うんざりしているのは僕のほうだったようで、均衡を僕は潰してやろうと、違う話を切り出してみた。

「ねえ、君は食事に誘うような人はいないの?」
は面食らったような表情で僕の顔をまじまじと見つめ返して来た。彼女はどういう意図で何を言っているのかあまり理解が出来ていないと言った表情を浮かべながらも淡々と返事をする。
「いない」
表現するのには足り無すぎるごく単純な返事の中に僕は彼女の言わん事をすぐさま理解した。中学で培ったもののひとつに彼女の無精ともいえるほどのこの言葉足らずの真意を推し量る事がある。年齢を重ねた今、どういう意味を持っているのか、さらに理解と可能性を含ませて解釈する事も簡単だった。
もしあの時にここまでの理解力と可能性を含めての解釈が出来たのなら、と僕は一瞬考えた。
「誘われる事もないの?」
あの別れの時が15歳、そこから8年が経っている。彼女の事だからストレートで大学に入学しているとすれば現在は社会人2年目といったところだろう。会社というものがどういうものかは分からないがきっとファミリーに近いものがある筈である。ともすれば食事にお互い誘い合う事もある筈だと僕は考えた。しかし相手はである。ここまで表現することを苦手とし、表現することすらも厭うような雰囲気を持つ彼女に声をかけるヤツなんているのだろうか。
「…それは少しあるけど、面倒だから行かない」
「ふぅん。誘うやつってさ、バカだよね」
彼女に何かを期待して食事に誘う男って本当にバカだと僕は思った。昔から彼女は無駄な事や余計な事は言わない。それは今でも変わらないらしい。その態度は何より聡明とも取れる態度である。ぱっと見れば、とても出来た女である。言い換えれば都合のいい女とも言える。
だがしかし、裏を返せば能面とも言える前での無表情で仏頂面。その上コミュニケーションをとる気はゼロで淡々としている。彼女にとって『食事に行く』というのは返事から察するに『そのままの意味』で捉えているのだろう。その後の発展も何もあったものでないだろうと思ってしまう。
「あなたもバカの一人、ってこと?」
僕に質問を投げかけておいて、ジョッキの中に残ってるビールを彼女は一気に飲み干した。

「ねえ」
「何」
「どうしていまだに君の横には誰ひとりいないの」
君の隣にいるのはあくまでも僕であり、僕の隣に居るのは僕でなくてはならないんだなんて大それた事を夢見ているのだろう。僕は一方的な情愛をに押し付け続けているのは承知している。それは彼女に向けるから少々傲慢であれ構わないと思っている。嫌なら拒絶すればいいのにそうしない彼女が悪いと僕は心のどこかで責任を転嫁しているのも元より承知だった。
彼女が で有る限り、僕は彼女を渇望するのだから。

あの日飛び出したこの街も君も正しさをまだ持っている。僕はアウトサイダーの世界に身を置いている。この存在はイレギュラーなんだと、この街とが僕につきつけてくる。なのにまだ願うのだ。
あの日気に入らないというだけでいとも簡単に手放したその手をまだ掴もうと、この正しい街から正しさを持つ君を奪ってアウトサイダーに身をおかせようと手薬煉(てぐすね)を引きながら僕は彼女の目の前に居るのだ。

「ねえ」
といかけにはお箸を置いて僕を見る。
「僕の事忘れないでいたの? 好きなの?」
僕の攻め立てるような問いかけに彼女は中腰で立ちあがり乱暴に僕のネクタイを掴んできた。対抗しようと思いながらも好きにさせてみようと、なされるがままに僕は彼女に身を委ねた。彼女は掴んだネクタイを自分のもとへ引き寄せて僕に乱暴なキスをする。
その姿を僕のほうが引き寄せようと、その腕を掴もうとしたが彼女はすぐに僕のネクタイから手を離し、その手でトンと僕の胸を押して反動で元の場所に座った。

「…言ってあげるつもりはない」
さっきまでの行動はなかったかのように箸で食べ物を小皿に取りながら小さく呟いたの表情は諦めが漂っていた。僕は次の行動を考えながら、彼女の動向を静かに窺った。
「それって誘ってるの?」
僕は彼女に密着して耳元で囁くと、さっきから食べたがってた磯辺焼きをかじりなら「…そんなこと、ない」と彼女らしくないまでに頬を紅潮させて目を反らしていた。
そんな事をそんな顔で言うもんじゃないよ。と僕は彼女の耳元で更に囁いた。
恋愛感情の有無はいざ知らず、あれから彼女はずっと僕の事を想っていてくれてたのだとその時初めて知った。そして僕は、この街を去った後もずっとずっと、彼女の事をずっと想っていたのだと今頃になって知ってしまったのだった。