「今日からテスト最終日前まで、家庭教師をすることになったから」
が流川の部屋にやってきて、一番最初に言った言葉がそれだった。床には教科書とノートが散乱していて、プリントがあたりを舞っている。本人はベッドの上でだるそうにを見上げて「おう」と挨拶をする。殺風景な部屋が紙の海に呑まれていて、はすっと息を吸った。
褒章とペナルティ
「どうして勉強を投げ出してるの? もうすぐテストでしょ。詳しくは後で聞くからまずは足の踏み場と私が座れるスペースを作って」
息を吐く間だけでまくし立てるに流川は驚いて無言で散らばった本やノート、プリントを部屋の端に積み重ねた。その間のはと言えば仁王立ちで流川の部屋にじっと立ったままであった。
教科書とノート、プリントをベッドの脇に積み終えて流川がベッドにもたれかかるように座ってから「デキタ」と呟くと、は「よろしい」と呟いて机の前に座り「おば様に請われて君の家庭教師をしにきたから、よろしくね」とそっけなく答えた。
流川楓の成績をどうにか立ち直らせて欲しいと流川の母親に懇願されたのがテスト2日前。がデパ地下にて母親と買い物をしている時にたまたま出くわしたのが事の発端だった。
「ちゃんはこんなに頭がいいのに」
とを目の前にして流川の母親が聞こえるように呟いた。
(基本的に私は座学が好きであり、彼ははそうでない、たったそれだけの差なんじゃないだろうか)
は自身と流川の相違を指摘してみようにも母親と世間話を始めてしまったため彼女は伝えるタイミングを逃してしまい、手持ち無沙汰でテナントとして入っている老舗和菓子店の竿菓子をぼんやりと眺めていた。
盛り上がる話は、へ話がやって来た時には既に昼食をご馳走になるという条件で家庭教師をすると言う話が取り纏められては母と流川の母の顔を呆然と見つめる他無かった。
「ちゃんが家庭教師に来るんだから、お茶請けが要るわねえ」
の退路を塞ぐために流川の母親が彼女が見ていた竿菓子を彼女の目の前で購入してしまった。困ったのはのほうで、完全に退路を塞がれた、と非難の目で母親を睨めば母親は「頑張ってね」と笑顔で返したのだった。
からして見れば、謀略であったし母親の人身御供のようなものだ、と憤慨してみたところで届くはずもなく、それならば教えながら自分もテスト1週間前に差し掛かる今日は勉強道具を持ち込みで一緒にすればいいか、と思えば、試験前に何もしていない流川の態度に腹を立てた。という次第である。
流川はどうしてがここにやってきたのか、いまひとつ理由が掴めないままであったが、自分の母親に頼まれてきたと言われすぐに合点が行った。恐らくは成績が芳しくないから、身内の中でも屈指の進学校に通っているに言われれば少しはどうにかなるだろうという考えからだろう、と推測した。
が流川の部屋に入って自分の勉強道具である教科書とノートをカバンから出して自分の勉強を進めて行く。昔から自分のペースで物事を進めて行くは流川に「分からないところがあればその都度聞いてくれればいいから」とだけ伝えてパラパラと教科書を読み始めた。
「ワカンネー」
すぐに流川が分からないと意思を示したためはペンを教科書に挟み込み流川の方へ体を向け「どこが?」と尋ねた。流川は悪びれもなく「全部」としれっと答えてはむっとした表情で「授業中何をしてるの?」と訊けば流川が何をしているのかを答えた。
「やっぱり」とが呟いて沈黙が支配する。私にどうしろというのかしら、と目頭を抑えながら低く唸るような声をはこの重たい空気の中で搾り出した。
要は一から叩き込んでやって欲しい、と言う懇願以外の何者でもない、と言う事である。
「決めた」
が流川の教科書をざっと眺めている間、沈黙が続いたがそれを破ったのはこの一言であり、流川はの言葉に「何だ?」と簡潔に尋ねた。
「確か赤点4つ取るとダメなんだよね」
学校が違えばルールも違う故に、確認を取ると流川はコクリと一度だけ頷いた。はそれを確認してから「赤点4つ取った地点であなたとは口を聞かないから」とだけ宣告したのだ。
「意味ワカンネー。何でだ?」
流川の言葉にはぴしゃりと「今決めた。理由なんてないわ。それが気に食わないなら赤点を阻止すればいいだけよ」と言い放ち、「勉強するの、しないの? しないならここに居る時間は無駄になるだろうから、帰るね」とさらに問い質した。
「…ヤル」
流川は昔なじみのである彼女が一度こうだ、と決めた事はよほどの事がない限り覆す事がないと身にしみていた分かっており、逆らったところで無駄であるとすぐに試験勉強に取りかった。
「楓くんはやればできる子なんだから、頑張ってね」
淡々と応援の言葉だけを放って、取り急ぎ初日1時間目の要所だけをかいつまんで急ぎ足で説明するの声を聞き逃さないようにしっかりと流川は耳に叩き込んでいた。
「」
流川の集中力は長く続き、質問も多くの手を何度も止めさせてはいたが、始めてから5時間程は経過していた。さすがに集中の糸が切れたのか首を回しながら背伸びをする流川に釣られてもまた緊張の糸が解けて背を伸ばしながら「何」と返事をした。
「赤点4つ以上で口をきかねーなら、3つだったら何かクレ」
流川の言葉に「4つの地点でペナルティなのにペナルティがなけれな褒章だなんておかしいわ。赤点がゼロだったら考えてあげなくもないけど」とができっこないでしょうけどね、という言葉をつけて返答する。
「…ワカッタ。赤点ナシでだな」
流川の言葉にが「それでいいわ。その代わり6個以上取ったら、さらにペナルティね」と言えば流川が非難しようとしたが、の目は問答無用と言わんばかりの厳しい視線だったため、出そうとした言葉をそのまま飲み込み静かに頷いた。
その日から、流川は学校から帰れば勉強尽くめであった。一心不乱に勉強する姿に常日頃から1日1時間でもやっていたらこんな事はならないのに、とは今日も流川の部屋で勉強をしながらそんな事を考えていた。
「。ここワカンネー」
教科書を指して尋ねてくる流川には「ハイハイ」と返事をして簡潔に説明すると納得したのかすんなり引き下がりまた黙々と勉強を流川は始めるのだった。
流川のテスト期間中が終わり、彼は翌日からテスト休暇、はテスト中と言う日の下校途中に思いがけない場所で鉢合わせしたは、流川の様子を見て開口一番に「晴れ晴れとした顔してムカツク…」と呟いた。
顔を会わせたと流川の表情は両極に位置するものでありは不満をさらりと述べて帰路を急ぐ。部活までまだ時間があるのか流川がの後ろを黙って付いて来て「クレ」とだけしきりに訴えかけて来た。
「何?」
試験時は昼夜逆転の生活をするにとっては昼下がりになれば睡魔が襲ってくるらしく、流川の言葉にぼんやりとした返事をする。
「頼み込んで先に採点してもらった。赤点ナシだった。約束」
そういえばそんな約束もしていたっけね、とは「ん。何が欲しいの?」と欠伸をかみ殺しながら流川に尋ねた。
「おめーが欲しい」
公共の往来で流川がはっきりとした口調で言い、は手をヒョロヒョロ振って「眠いからその話はテストが終わってからね」と帰路に向かって歩いていた。
「、赤点ナシだったから約束は守れ」
流川の呼び止めようとする声には振り向く事はなく「私のテストが終わってからでも遅くはないでしょ」と大きな欠伸をしながら答えた。
(心臓がうるさいわ…これじゃあまるっきり私に対するペナルティじゃないの。彼と付き合うという事は、すなわち彼の学校の女子生徒に睨まれると言う事でじゃない!)
果たして今日はきちんと昼夜逆転で明日の試験に備えられるのだろうか、後ろを相変わらず付いて歩く流川楓の存在を気配で確認しながら、色々な原因からくるドキドキとする鼓動には「一体私はどうすればいいいのよ…」と頭を抱えたまま小さな声で呟いたのだった。