すこし前までできたこと
中学に上がってから、今までと名前を呼び捨てにしていたルカワくんは苗字を呼び捨てるようになっていた。むちゃくちゃなあだ名で呼びさえしなければ人の呼称にあまり頓着しない私はそのままを受け入れ、同じ様に呼び方の距離感としては適切さからか私も同様に、カエデくんからルカワくんとその時から呼ぶようになっていた。
どうして呼び方を変えたのだろう、と気になったのは呼称が変わってから数ヶ月経ってからの話だった。中学に上がればルカワくんは部活に明け暮れていたし、私も本に明け暮れる毎日で会話自体が途切れてしまったので、それ以上の詮索をする事もなくなってそのままだった。
図書委員会としての仕事をこなしていると気がつけば外は暗くなっていた。時計を見る限り活動している部活も委員会もない時間で当然先生だって不在の時間で、図書室にある予備の鍵を持ち出した。帰りの通路の施錠を確認しながら下足箱まで向かうと、ルカワくんが私の下足箱付近に立っていた。
「今まで練習だったの。お疲れ様」
上履きから革のローファーに履き換えながらそう言うと、「チガウ」と短い返事が上から聞こえてきた。ルカワくんの語彙の無さは相変わらず健在だった。
「練習じゃなかったのね」
そう尋ね返すと、コクリと一度頷いて肯定の意味をルカワくんは示したので、「そう」と返事をして下足箱の出入り口の鍵を閉めるために、早く出てくるように外へと手招きすると、大人しくついてきた。下方にある鍵穴に合う鍵を探して施錠をする。背後ではルカワくんが仁王立ちになったまま、しゃがみこんだままの私を見下ろしていた。
「……」
名前を呼ばれた私は立ち上がってルカワくんの顔を見た。昔よりずっと背が高くなったのがよく分かる。きちんと顔を見ていると首が痛くなってくるくらいに顔が私の遥か上にあるのだ。
「大きくなったね」
最後に真正面から見たときは私とそう変わらない身長だったので、これだけ成長した幼なじみをまじまじと見るのは感慨深い事で私は笑ってそう言うとルカワくんが私の腕を急に引っ張り出した。
「どうしたの?」
「昔はこうやって帰ってた」
突然の行動に意味が分からなくなって、私は頭に疑問符を浮かべたまま、大人しく引っ張られていた。自転車置き場にやってくると、ルカワくんは、自分のマウンテンバイクの鍵を開けていた。私は何を言う事もなく、暗闇で手際よく鍵を外すルカワくんの手さばきをぼんやりと眺めていた。こうやって何かやっている彼を後ろからぼんやり眺めるのは久しぶりだと、懐かしさがこみ上げてきた。
「じゃあ久々に、一緒に帰ろっか」
昔を思い出して私が言うと「オマエはいつもそう言ってた」とぽつりルカワくんが呟いた。
「そうかもね」
私は笑って聞き流しながらとぼとぼ歩く。ルカワくんもその横を自転車を押しながら同じ速度で少し前を歩いていた。いつもきりの良い時間に帰るように促すのは私だったんだっけ。そんな昔の事をまだ覚えているなんてなんという記憶力なんだろう、と少しばかり感嘆しながらも余計な事は言わないほうが良いだろう、と口を開く事はなかった。
校門を出て右の大通りへ出て、少し歩くと家の方面へ向かうバス停へ到着する。
「私はここからバスだから。じゃあね」
最終バスまでまだ10分も時間がある。自転車を押しながら少し前を歩いていたルカワくんを私はバス停で立ち止まって手を振って見送る。バス停のベンチに腰掛けて私は読みかけの小説をカバンから取り出した。ページをまくる手を掴まれ驚いて見上げるとそこには見送った筈のルカワくんが立っていた。
「一緒に帰るって言った」
「そう言ってもルカワくんは自転車、私はバスだよ。それに、途中まで一緒に帰ったよ」
ね、だからこれでお話はおしまい。早く帰らないと明日の部活に響くよ?と付言した私の声に耳を貸す事なくルカワくんはその場に立ったままじっと私を睨みつけていた。
「いい加減ルカワくんってのヤメロ」
目の前に立ちふさがったまま、ぽつりと呟くように問い詰めるルカワくんの口調は相変わらず健在、といったところだった。小さな子供が起こすような癇癪は起こしてはいないもののかなり頑固で意固地でマイペースな性格は相変わらず変わってはいないらしく、また私も突っ走られたら言葉を失うと言ってしまう性質も相変わらずで、結局言い返す言葉を見失った私は黙ったままで、開いた本もそのままにしてルカワくんをベンチから見上げたまま時間が過ぎていく。
数分もの間お互いがそこから一切動く事なく、口を開く事なくその場に固まるように佇んでいた。やがて最終バスが停留し、出入り口がプシュっと音を立てて開く。その音がこの沈黙と硬直を破った。
「じゃあね、また」
私はバスに乗り込もうとすっと立ち上がると、私の腕をルカワくんが掴んで引っ張って私はバランスを崩した。
「バスにはのらねえ」
勝手な事を運転士さんにルカワくんが言うと無常にもバスは扉を閉めてエンジン音を立てて発信してしまった。
「あのね。私はバスに「後ろに乗れ」
私の罵声もルカワくんのマイペースな唯我独尊で遮られ、結局怒るタイミングを逃した私は呆然と立ち尽くしていた。流石に帰宅時間の短縮には手っ取り早いと思いすごすごとマウンテンバイクの後ろに立ち乗った。
「これでいいの?」
おずおずと後ろに乗る私に「しっかり掴まれ」と言うルカワくんの言葉にしぶしぶ私は従った。昔も私が結局根負けしてしまっていた。根気がねえ、とよく叱咤されていたが今ならきっと言い返す事が出来るのに、その言葉をルカワくんが言う事はもうない。
「…自宅まで無報酬でお願いね」
溜息をついて、そう言うとルカワくんは一度だけ首を縦に振った。
「なんでおめーは名前で呼ばなくなった」
自転車の後ろに乗って夜風を切っていると突然に言葉も一緒に流れてきた。
「ルカワくんが、私の事をって言ったからその方がいいんだろうな、と思って」
私は正直に言うと「何も考えなしだったのか」とルカワくんが結構な指摘をしてくる。そうした方が良いのではと言う判断があったからよ、と言えばきっとまた何か言ってくるだろうなあ、とぼんやり考えて「言われてみれば、その通りだね」と適当な相槌を返しておいた。ルカワくんは何も言ってこない。
そしてまた沈黙が続くのだ。
景色はどんどん変わって昔に遊びに行った遠くの公園や迷子になった商店街を二人乗りのマウンテンバイクは小気味良くすり抜けて行く。
「どうしてルカワくんは名前で呼ばなくなったの?」
それは先ほど私が投げかけられた質問と全く同じ質問である。別に答えなんて求めてはいなかった。ただなんとなく気になったからと言う理由だけで、私はその質問をルカワくんに投げかけたのだ。
「中学の制服を着たオマエを見たら、軽々しく名前で呼べなくなった。それだけだ」
今は話せなくとも、きっと大人になって話す機会が出来れば教えてくれるだろうと気楽に構えていた私のところに意外にもすんなりと答えが返ってきた事に驚いた。ルカワくんから話を打ち切りたそうにしている意図が見えたので、私は「そうなんだ」とだけ答えた。
だからこの話はこれでおしまい。
自宅が見えてきたので私は自転車から飛び降りる準備をする。それは二人乗りをした頃の暗黙の了解で、自転車で二人乗りをした時は、後ろに居る方の家についたら勝手に飛び降りて帰る。今回も例に漏れることなく飛び降りようとしたら急に自転車が止まってルカワくんが降りるように促してくるのだ。勝手が大きく変わっていたので、面食らった私は居心地が悪くなってすごすごと自転車から飛び降りた。
「ありがとう。おやすみ」
自宅に入ろうとする私をじっと見たままのルカワくんは何か言いたそうにこちらを睨みつけている。
「ルカワって呼ぶな。名前で呼べ」
ルカワくんがはっきりとした口調で伝えてくる。
「どうしたの」
続けて名前を呼ぶとまた腕を掴まれてルカワくんにしがみつかれるように抱き締められていた。
「…名前で呼べ」
ルカワくんが必死にすがるように私に言ってくるので「どうしたの? ……カエデちゃん」と尋ねれば抱きしめられる力が急に強くなった。
なんだか心細い子供の慟哭にも似た態度に私は腕を回して背中をトントンと叩いた。あの頃は私と対して変わらなかった身長だったのに、今ではずっと大きくなっている。
「本当に、大きくなったねえ」
「、…」
堰を切ったように私を抱きとめたまま名前を呼び続けているカエデちゃんに「なあに」と返事をしてもまだ私の名前を呼び続けたままだった。私は落ち着くまで背中をトントン叩くだけだった。
「やっぱり、おめーがすきだ」
突然に降りかかってくる言葉に私は固まった。
「中学の制服を着た時には気づいてた。小学生のガキん時にはって言えたのに、中学になってから呼べなくなった。けど言えた。、ずっと好きだ」
カエデちゃんはまるでお酒を飲んでクダを巻く酔っ払いくらいにいろんな事を一気に話し出す。それに処理が追いつかないのが私のほうで、何をどう答えていいのかも分からないくなってしまい、思いの他取り乱しそうになっているのを必死で取り繕っていた。
「取り敢えずは、今日はホント遅いし、明日の朝にでもご飯食べにおいでよ。ご飯食べた後の部活までの時間にちょっとじっくり話したほうが良さそうな話だし…」
そういうとすんなりとカエデちゃんは私を放してコクンと一度だけ頷いた。
「じゃあ、また明日ね」
そういって私は慌てて家に引きこもるように帰っていく。時計を見ればもう夜も遅い。いつもならもう小一時間もすればベッドに入っている時間なのに眠れそうにもなかった。
これから頭を冷やして、夜通しフル回転で考えるのは私のほうだ。
すこし前までできていた、のらりくらりと笑って流すことがもう出来なくなっている事に気づいた私は思いのほか狼狽していた。