小さな約束
「空が高いねぇ」
放課後の帰り道、たまたま正門で会った沢田綱吉の横に無理に並んで私は帰り道を歩いた。
いつの間にか蝉の声は消え入道雲はなりを潜め、制服は冬服へと見事なまでに変貌を遂げ、蒸し暑い日々は完全と忘却の彼方へと去ってしまっていた。
私の言葉に反応するかの様に沢田綱吉は困ったように笑って「うん、雲が遠いね」とぼそりと言葉を返してくれた。
「本当だね」
彼の言葉にまた私も反応するかのように呟きながら目で雲を追って行く。
晴れ渡る秋空はどこまでも高くて雲もいつの間にか成層圏に出来る雲になっていた。ひとつひとつの雲が思い思いの絵を高い空をカンバスに描き続けていた。何処までも遠い空に果てしなく続く雲の模様がどんどん変わっていく。絵と言うものは同じものが二つとて存在しないという事を具現するかのように、どこまでも描き続けていた。
「綺麗だね」
私は好きな景色はいつしか失う日が訪れる事をうっすらと感じたのかも知れない。
それははっきりと感じたものでなく、漠然とそうなんじゃないかと思っただけの話で、まだ私の中ではこの中学校とその周りが世界がすべてで小学校から比べれば格段に広がった世界で、高校にもなるとどんどん世界が広がっていく。
無限に広い世界になっていくという思いの方が強かった。
「さん、何かあったの?」
沢田綱吉が心配そうに私の顔を覗きこんできた。私はきょとんとした顔で彼の顔を見る。何もないが何か思うときがあった。それは漠然とし過ぎていて自分自身がこれが何なのか、見当すらつかず感情すらも持て余しているだけのものである。
そんな時に必ず沢田綱吉という少年は私にさりげない気遣いを見せてくれる。しかし、それ以上の詮索をしてくる事はなかった。何か言うとまたクラスでからかいの種になるからなのか、はたまたそれ以上の興味を示さないからなのか。
そんな事はどうでもよかった。私の中での沢田綱吉は「なんという細かい気遣いが出来る人なんだろう」と感嘆に値する人物像だった。彼は人を傷つけない。人を傷つけないから自分が傷つくのだろう。人を傷つけて己を守り、やがて自分も傷つく自分とは大違いだ。自分とは大きく違うからこそ私は彼の持つものが崇高なものである、と思うのかも知れない。
クラスではダメツナと嘲笑の対象で誰も彼の繊細さや些細な優しさに気づく事はない。恐らく気づいているのは私だけだと自惚れても良いと思えるくらいに。
「うーん、何もないんだけど気持ちに整理がつかなくってさ」
私が言って苦笑いを浮かべる。沢田綱吉という男は何も言うことなく困ったように笑っていた。
その顔が好きだった。その懐の深さが好きだった。
彼のその姿が今見える空なのだとすれば、いつしか雨雲が覆ってしまい、覆えば忽ち消失してしまう。それはただ予感を孕みながらも呆気なく訪れる。そんな気がしてならなかった。そんな気がしたから何もないのに変に焦燥感に駆られたのか、または焦燥感から変なことを考えたのか、それは私にも分からない。
少なくとも私が感じたのは、沢田綱吉という存在はやがて私の手の届かない所へ行くのであろう、という事だけだった。
手の届かないところと言うのはどこかなんて言うのは知らない。数年もすれば彼の良さを理解する人がちらほら現れるだろう。彼を思うと感情がどっとあふれ出す。コレを愛と知るにはまだまだ子供で、私はただ持て余していただけなのだと今更ながらに思い知った。
「ねえ、手を繋いで」
「そんなことしたらさんが色々言われちゃうよ」
言われるのはお互い様なのに、自分の事より他人の事を気にしてくれる彼の優しさにまた感情を持て余す。持て余した感情に私は振り回されるままに好き勝手な事を言って彼をまた困らせる。
「学校で流れる噂なんてどうでもいいからさっさと手を繋いで、って言ってるの」
早く、とまくし立てて無理に沢田綱吉の手を取る。私より少し体温の高い手は私の心にまで染み渡りそうな温かさを孕んでいた。
「ずっと向こうの果ては見れないんだしさ」
染み渡る彼の温かさを感じながら私は話を止める事はなかった。
「だから今ここに見えるものをきちんと見なきゃ、って思わない?」
深呼吸して続けた言葉は沢田綱吉の目を見開かせ私の方へ向いた。私を見ている筈の目は私を通り過ぎ別の何かを見据えた目みたいだ、と私はぼんやりと考えた。
違う、違うの。
もっと目の前に見える者を見据えて欲しいのに。私は苦虫をかみつぶしたような感覚はこんなものなのだと知った。
「そうだね」
彼から覗く優しくて真剣な目に私は心臓がはねあがる。
そして、好きだけど私ではダメなんだという事に気づいた。
出会うのには早すぎたのだという事を漠然と思ってしまった。
沢田綱吉は私の話を黙って聞いてくれる。
その姿は包み込むように優しいまなざしでこちらを見ていて、涙があふれ出てくる。
「さん、お願いだから泣かないで」
彼の口から出てくる言葉はひたすら優しかった。手も振り払う事はなかった。黙って握ってくれる手を私は強く握り締めた。
どうせなら皆この姿には気付かなければいい。
私がこんな彼の姿に気付かない振りをする事を出来る限界でもあった。
「ねえ、ずっとあのままの、クラスのヤツらにからかわれ続けるダメツナで居て」
まくしたてるようにボロボロとこぼれる涙を拭いながらに命令するかのように私は沢田綱吉に言った。
ついでに「守れなかったら缶詰工場に放り投げるからね」とも付け加えた。
「ずっとダメツナってクラスで言われ続けると思うよ」
私の言葉をどう捉えたのかなんて分からない。
彼は私が言った侮辱とも取れる言葉も苦笑いを浮かべながらも責める事はなかった。
「ずっとダメツナでいなさいよ、ずっとだからね」
彼はダメなんかじゃないのに、彼の優しさの上に胡坐をかいて、彼にほろ苦さを味あわせるかのようにずっと言い続けた。
ただ、約束をした事実でよかった。その約束であなたが少しでも私を思い出してちょっと苦い気持ちになってくれればそれだけで良い。そんな、約束だったのに。
私を思い出してちょっと苦い気持ちになってくれればそれだけで良かった。そんな些細などうでも良い守られない約束の筈だったのに10年経った今、私の方が少しだけ苦い気持ちになる。きっとあれは初恋であって、初恋ではなかった。
ありったけの愛がこもっていたんだと思い知る。早すぎた愛に傷つけることしかできなかったあの頃を思い出す。
思いはきちんと消化させてやらないとならなかったのか。
どうしてあの時きちんと伝え切れなかったんだろう。
今は手の届かないところへ行ってしまった彼の優しさを思い出して私はまた溜息を零した。
「元気かねぇ」
一緒に出た小さな呟きは広く高い空へ飲まれて行った。