河合曽良

2008/11/15

短編

コンマ五秒

理想とは全然違うのに、僕とあろう者が一目ぼれなんて愚かな事をする事はないと、少なからずもそう思っていたのですが、どうやら愚か者だったようです。少なくともこの僕が目を奪われたのです。

彼女の何が良いかなんて事は後付けで何とでも言えます。容姿端麗ではないのに(クラスメイトと話題には出てくるくらいには可愛いです)、頭脳明晰ではないのに(かといってバカというわけではありません)、どこにでも居る(あくまで比喩で彼女と同じ人なんて存在しません)、ただ同じ学年に居る、同じクラスに居るたったひとりの女子に心を奪われたのです。

チャイムがあと5分で鳴るという頃に彼女は教室にふらりと戻ってきました。その姿も、その態度もまるで気侭に振舞う猫のように見えて僕は声を立てずにただ笑いました。
、次移動教室だよ」
「ええ、視聴覚だっけ? すっかり忘れてたよ。ごめん、先行ってて」
ドアの前で教科書とノートを持って僕は、さんがクラスメイトに断りを入れながら慌しく準備をしている姿を眺めていました。

「アンタ何してんの? 待っててくれるのは有難いけどさ、遅刻はマズいんじゃないの」
要はさっさと行け、と暗に言っているらしいが僕はその言葉をあえて無視する事にしました。誰にも気さくに、ざっくらばんな気使いを見せる彼女をじっと見つめていると、彼女はバツが悪そうに視線を逸らしながら伺い立てるように僕の方をちらりちらりと見てきました。

「ねえ、さん」
誰もいない休憩時間も終わりかけの教室のドアに僕は立って彼女にゆっくりと話しかけました。
「何?」
最初は不思議そうな表情で僕のほうを見ていた彼女も僕が一歩近づくと、「僕の行動が理解できない」と言わんばかりの怪訝な表情を浮かべて、それでも視線をあげて僕のほうをまっすぐ見つめました。僕の背中はじわりと熱を持ちながら震えている、そんな気がしました。
否、確かにぞわりと背中が震える感覚が心を震わせ喉を渇かせ、脳が彼女を渇望したのです。

「一目惚れって言ったら信じますか?」

淡々と僕は彼女に事実を伝えると同時にチャイムが鳴りました。に告白をした僕にとって大事なものはその後の彼女の反応ただひとつであり、授業なんてどうでも良くなりました。
怪訝さをさらに孕ませながらも彼女は僕の言葉に耳を傾けようとしました。彼女の耳にチャイムの音が聞こえたのかそんな事はどうでも良い話で僕の放った言葉がきちんと耳に届いているか、たったそれだけが気になる事でした。

どうやらチャイムの音のほうがかき消されたようで、僕の言葉に対して彼女の口からは「は?」と一言、たった一言の反応がこぼれてきました。それだけで今の僕は満足したといっても過言ではありませんでした。間違いなくは僕の言葉に反応して、僕の言葉にどうであれ返事をしたのです。

「一目惚れですよ」

更に追い討ちをかけるように僕が言えば、彼女は「ああ、一目惚れ、ねぇ…」と考えるように言葉をゆっくり吐き出して次の言葉を紡ごうとするのを僕はじっと見つめました。
「んー、一目惚れねぇ…、する人もいるんじゃないかなー」
僕の望んでいる言葉とは全く見当違いの答えが戻ってきて少なからずもムッとした僕の事などお構いなしにさんはどこかで仕入れた知識を広げて真剣に話かけてきました。

「たしか一目惚れに要する時間ってコンマ五秒、なんだってね。コンマ五秒で一目惚れして、更にその対象をコンマ五秒長く見るんだとか」
「良くご存知なんすね」

言葉の端にいばらを挟んでいる僕の事などお構いなしに彼女が話を続ける。
「まあね、この前ネットニュースで読んだからさ。ってもう授業始まってるじゃないの!」
まるで僕の告白はなかったと言いたげな態度に苛立ちを隠す事なく僕はの前に立ち塞がって教室から彼女を出さないよう一歩、また一歩とゆっくり彼女に近づいて行きました。
「僕がさんに一目惚れした話は載ってましたか?」
その様子に何か感じ取ったのかさんは僕が近づいた分だけゆっくりと後退していき、その分また僕は近づいていけばやがて窓にぶつかり、彼女はやっと立ち止まって僕を見上げ、口をパクパクさせて何かを訴えかけようとしていました。

「あ、あるわけないじゃない! ってアンタ、バカにしてるでしょ」
やっとの事で出た言葉は僕を罵倒する姿でした。混乱した頭でいっぱいになった挙句のありったけの罵詈雑言なのでしょう。
普段の彼女はもっと口が達者なのに、と思うとそんな彼女も悪くないと僕のサガが叫びました。
「ええ、軽くバカにしてますよ。さんが気づく時間は何万時間ですか? いくら気長な僕でも待てる時間ではありません」
だって気づかないあなたが悪いんですよ。こんなにも単刀直入に言っているのに、その言葉に気づく事なく見当違いな事を言うその軽い口が悪いんです。
コンマ五秒は一目惚れに掛かる時間。では好きだと相手にわからせるための時間はどれくらいかかるのでしょう。

「ねえ、ひょっとして、マジ?」
「ええ、マジですよ」
…なんて僕が答えるわけありません。愚鈍なあなたにヒントをこれだけ差し上げたんですよ。
彼女に対する愛情も苛立ちもありったけの感情を含ませて乱暴に口付けてやりました。
少しは考えて少なくとも僕が悩んだ時間と同等の時間くらいは苦しくなりなさい。