小児科医の溜息
「せんせーありがとー」
「おだいじに」
午前の診療が終わって最後の子供と母親を玄関まで送り出す。高熱でも元気な子供は手を振って、診療を受けて町医者である私の「大丈夫です」の太鼓判を貰って安心しきった母親は何度も頭を下げて帰っていく姿を見えなくなるまで見送った。
地域密着の小さな診療所の小児科専門医。子供がお礼を言ってくれるのはとても嬉しくて、やり甲斐はあるといつも感じている。たまにとんでもない親がやってくるのを除けばそうそう悪い事もないと私は思いながら、子供の影が見えなくなってから私は溜息をついた。
「坂田さん…何隠れているんですか?」
溜息の原因はコレだ。診療所に最近やってくる坂田さんの扱いである。
教も花壇の脇に隠れるように立っている不審者のようなこの人はこの所、午前診療のみの曜日になればいつも現れる。
彼が診療所にやってきた当時は子供たちに紛れて待合室に居たものだから、誰かの親御さんかと思って気にもとめてなかった。しかし、結局午後診療最後の最後まで座っていたので、もしかしてと思い「MRの方ですか?」尋ねてみた。
ウチみたいな診療所に営業に来たところで営業の数字は上がりませんよ、とやんわりと指摘しても「ナニソレ?」みたいな顔をしたので、医療関係者ではない、と。
しかも不躾にじろじろ見てくるので、何が言いたいのか全く分からない。
痺れを切らせて「お引取りください」と言ったらその日は帰って行った。
翌日から午後診療の度に待合に座っていた。
気にして触れたら負けのような気がして何も言わなかった。言わなかったから今もこうして診療の合間の時間にやってくる。きちんと「こないでください」といわなかった事に今になっては反省している。
それからと言うもの水曜日と土曜日の昼過ぎになればこうして診療所の前にやってくるのが目下悩みの種となっていた。
「
センセー…病気だから診察して?」
有保険者であろうが無保険者であろうが診療科目は「小児科」一本である。届出がない以上、内科としての診療は出来ませんと断ったのはつい先週の話なのに、憶えてないらしい。天パは鳥頭以下のようだ。
「ウチの診療科目、読めますか?」
「ほら、銀ちゃん精神年齢低いから」
「生憎ウチは実年齢で判断してますので精神年齢で診察している小児科を探してください」
私の言葉に悪びれなく返事をする。子供を対象としているから来るな、と暗に言っても無駄なのか、予想の斜め上の返事を返してくる彼に私は最初の頃こそ頭を抱えたが、これがもう2週目にもなれば慣れも手伝って即座に言い返すことができるまでになっていた。
いつもはそれで終わっていたはずなのに今日に限って終わらなかった。
何も言わず診療所の中へ入っていく坂田さんを追いかけるように私は診療所に戻る。
「坂田さん!」
私の制御にも聞く耳持たず、不法侵入者は診療室にズカズカと入っていく。
私も追いかけて入ると扉が閉まる音がする。
「銀ちゃんね。
センセーにしか治せない病気、持ってんの」
顔が近い。私は後ろに退くと前にずいと乗り出していつの間にか壁に追いやられた。
「だから、先生治して」
耳元で息をふきかけるように話かける彼は間違いなくただの健康体である。
そもそも小児科だと言っているのに聞く耳を持たない男に対して私が思うのはただ一つ。
「いいから話を聞きなさい、こんの若白髪! 天パ!」
「い・っ・た・い・な・ん・で・す・か!」
近づく顔を手で押しのけても力で勝てるわけもなく、顔がずいっと近づいてくる。
「ち・か・い・で・す!」
その顔を両手で必死に押しのけた。
「せんせーにしか治せないの」
そのまま壁際に腕ごと押し付けられて首筋を舐められた。ねっとりとした感触に背筋が凍る。
思いっきり殴ってやろうと身構えれば急に抱きつかれて私は固まった。
「せんせー…苦し…」
呻くような呟きにもしや本当の病人なのかと「坂田さん?大丈夫ですか?」と医療従事者としてのサガで思わず呼びかけた。その瞬間そのまま診療ベッドに押し倒された。
「やべ、先生やわらけー」
耳元でぼそぼそ喋りながら押しつぶしてくる塊を必死になって押し返しているが、重力に盲信するような坂田さんを押しのけるに押しのけられず、彼の頬を必死に押し上げた。
「ちょっと…やめてくれま…」
「イヤー。病気治して貰うつもりだから、大丈夫、頑張って小一時間で終わらせるつもりだから」
「形成外科の免許も持ってますので去勢して差し上げても結構ですよ」
私の言葉に坂田さんが「イヤー!
せんせーの目、本気すぎるー!」と叫んで飛び上がり震え上がっていた。
「冗談ですよ、診療報酬なしの仕事なんてするわけないでしょう?」
血液が沸き立ちそうになるのを抑えるために毒づきながらウォーターサーバーから水を二杯用意して紙コップを一つ「頭を冷やしなさい」と坂田さんに手渡すと、さっきまでの事がまるで嘘だったように平然とした態度で彼がそれを受け取った。
「震える坂田さんはちょっと可愛いかったですよ」
私の言葉に「
センセーの前ではカッコイイ男で居たいの」とむくれ始めた。
(困るのよね、こういう揺さぶられ方…)
母性本能が頭の中でずっと警告音を鳴らしている事に私は気づかない振りをして坂田さんを診療所から追い出して、はぁ、と誰も居ない待合室で溜息をついた。